一緒に迷う

絲山明子の『イッツ・オンリー・トーク』は折に触れ手に取る小説で、「直感で蒲田に住むことにした。」の書き出しの一文を見るといきおい終わるまで読むことになる。あたかも最初の一音を聞いただけで、どうしても最後まで聞きたくなってしまう楽曲のように。

確かその中にあった「共感より理解がほしい」というような文言をよく思い出して、私自身もそのように思うことが多い*1。最近こんなことがあったんだ、と何かしらネガティブな事柄を話すと、多くの人が「それは大変だったねえ」「つらかったねえ」と共感の意を示してくれる。だけど私に必要なのはそれではない。私が何に困っているのか、それをただ「理解」してほしい。そしてできれば、私が考えていることを、一緒になって考えてほしい。

言ってみれば迷路の中にいるときに、共感する人は「大丈夫?」と声をかけて、上から引っ張り出そうとする。しかし私は再び同じ迷路に入るだろう。脱出はできても解決はしていないからだ。迷路は中を通って出口から出て、初めて解決したといえるのだ。

(小学生の子供に紙に書いた迷路を渡してみよう。その迷路を鉛筆でたどり、スタートからゴールまで線を書く。そのときあなたは「できたね!」と言うだろう。しかしもし迷路の外側を大回りするように線を引いたなら、「それじゃダメだよ」と言いたくなる。)

私は迷路の中にいる。どのような迷路なのか、自分でもよくわからない(もしわかっていたら、それはすぐにゴールできるということではないか?)。誰か一緒に迷ってくれる人を求めている。飽きたら途中で出て行っていい。どのみち私は最後までやらなきゃいけないのだから。

*1:今調べたらこの本には載っていなかった。同作者のエッセイかなにかだったかもしれない。