母親が自殺したとき、彼はコピー機の前にいた。間近に迫った期末テストの問題用紙が次々に吐き出されていた。

シャコン シャコン シャコン シャコン

シャコン シャコン シャコン シャコン

部屋がやけに黄色いようだった。においもいつもより濃いようだった。

後ろで社会科の谷合が順番を待っていた。三台あるコピー機のうち、一台は壊れていて、もう一台は別の教師が使っていた。その教師は印刷が終わるまで、隣の喫煙室にいるらしかった。

突然、彼の使っていたコピー機が止まった。モニターに、用紙が詰まったと表示された。彼はここだと思われる場所の蓋を開けてみたが、どこがおかしいのかわからなかった。谷合が無言で近づいてきて、彼を押しのけるように前に出た。ごそごそと機械の中に手を突っ込んで、くしゃくしゃになった紙を取り出し、何も言わずに彼に突き出した。

彼は黙ってそれを受け取った。

そのまま突っ立ていると、谷合はひょいと手を伸ばして、コピー機のスタートボタンを押した。再び機械が動き始めた。

シャコン シャコン シャコン シャコン

シャコン シャコン シャコン シャコン

煙草を吸っていた教師が部屋に入ってきた。自分の印刷がまだ終わらないのを見て、またすぐに出て行った。部屋がさらに黄色くなった気がした。

 

帰宅すると、いつもするはずの気配がなかった。テーブルの上に水の入ったコップが置いてあった。彼は、自分が今朝飲んだものか、自分がいない間に母が出したものかわからなかった。

ネクタイを解き椅子の背に掛けた。そのまましばらく突っ立っていた。それから椅子を引き出して座った。コップの水が微かに揺れた。

日が落ちるまで、彼はじっとしていた。

やがて妹が帰ってきた。右肩に仕事用の鞄を掛け、右手にビニール袋、左手にエコバッグを提げていた。どれも中身はいっぱいだった。

――電気ぐらい点けてよ

そう言って妹は明かりをつけた。部屋が真っ白になり、彼は目をすぼめた。なんだか黄色い光のほうが良いように思われた。

ぼんやりしているうちに、妹は風呂を沸かして入ってしまった。床に置きっぱなしの鞄が倒れていた。中から会社のものらしいファイルと、なぜかうまい棒がはみ出ていた。

電話

昔の友人から、毎年一度だけ電話がかかってくる。いつもワンコールで切れる。こちらから掛け直しても出ない。

はじめは間違い電話だと思った。しかし、2年続けて同じ日にかかってきたので、何かおかしい感じがした。3年目にもなると怖くなってきて、共通の友人に連絡をとってみた。消息は知らないとのことだったが、驚いたことがあった。彼女の元にも、やはりその友人から電話が来るというのだ。しかも、こちらと同じ日の、同じ時刻に、ワンコールだけ。分単位で同じということは、どちらかにかけてすぐに切り、直後にもう一方にかけているのだろう。

今年は、待ち構えていた。明け方、5時32分。この季節はまだ外が暗い。

鳴ったその瞬間に電話を取った。もしもし、と声をかける。すぐに切れるかと思ったが、意外にも通話はつながったままだった。

雑音がひどい。何かが擦れるような音がする。それに混じって、かすかに人の声が聞こえる。

モドッテオイデ。

そう言ったように思う。

それがあの友人の声だったか、それとも違う声だったか、考えているうちに電話は切れた。

しばらくして、再び電話がかかってきた。今度は、この間連絡を取った彼女からだ。

来たよ、どうだった? と聞いたが、彼女はすぐに答えない。ややあって、ようちゃん、と私の名前を呼んだ。

――行ってくるね

え? と言う前に、電話が切れた。

それ以来、彼女とは連絡が付かないでいる。

中学生の時だった。リビングのテーブルで宿題をしていた。母は台所で料理をしていた。父はまだ帰っていなかった。

――背わたを手伝ってくれない?

母が声をかけた。私は生返事をした。

料理は普段から手伝っていたし、母が忙しい時は私が作ることもあった。ただ、えびの背わたを取るのは苦手だった。なんだか、してはいけないことをしているような感覚に陥るのだ。

母はそれを知っていただろうか。そういえば話したことはなかったかもしれない。

 

宿題が半分ほど終わったころ、母がこちらに来た。何か言われるのかもしれないと思ったが、そのまま宿題を続けた。母も、私のすぐ横に立ったまま、黙っていた。生臭いにおいがした。

突然、私の顔の横にすっと手が伸びて、何かをノートの上に落とした。黒っぽい糸のようなものだ……

背わた、と思って鳥肌が立った。ばっと振り返ると、そこに母はいなかった。水が流れる音がして、母がトイレから出てきた。

――今ここにいなかった?

私の問いかけに母は首を振った。気が付くと、さっきの黒いものはどこかに消えていた。

スギナ

スギナは根が深い。長いもので1メートルはある。放っておくと庭中に生えるので、毎日のように掘ってはむしっている。殆どは掘り切れず、途中で根が切れてしまう。切れたところからしぶとく生えてくるので、できるだけ長く掘り上げたい。

昨日は風が強かった。集めたスギナが飛びそうで、大きな石を入れたゴミ袋に放り込んでいた。

掘り始めて1時間くらいだろうか。そろそろやめようかと思ったとき、どうしても掘り切れないスギナに当たった。いつもなら切れてしまいそうなところで切れない。これは相当長く掘れるのではないか。スギナ掘りには縁日の型抜きのような楽しさがあって、綺麗につながったまま引っこ抜けたときはかなりの達成感がある。

どこまで行くのかワクワクしながら掘っていくと、やがて隣の家の垣根まで来てしまった。この下も掘っていいものだろうか。垣根を越えたら駄目だろう。でも、スコップの届く範囲で掘るぐらいなら、許してもらえるのではないか。

好奇心と後ろめたさを半々に感じながらスコップを差し入れた。垣根の椿の葉が顔に当たるのも構わず、慎重に作業する。

流石に木の根が邪魔をして、掘れる場所がなくなってきた。ここらが諦め時だろう。ちぎるつもりで引き抜こうとしたが、なかなか抜けない。いつもはすぐに切れてしまう癖に、こいつはやたらにしぶとい。スコップの刃で切ってしまおうとしたが、変に弾力があってうまく切れない。

なんとなく蛸の脚を連想した。ぶにょぶにょしていて、よく研げた包丁でないと刃が入らない。

そう思った途端、突然根がビクンと動いた。吃驚してスコップを取り落とした。根はしばらく震えていたが、やがてするすると地面に潜り始めた。

スギナの全身が潜ってしまってから、いつの間にか随分経ったらしい。気が付くと風が止んでいた。見ると、袋に入れておいたスギナも、みんなどこかへ行ってしまった。

沈丁花

庭で摘んだ沈丁花を玄関に飾ったら、毎晩何やら声がする。

「ニテヒナルモノ ニテヒナルモノ」

そう聞こえる。

薄気味悪くて捨てようかと思ったが、昼間は何も言わないし、まだ綺麗な花をゴミ箱に放るのは憚られた。

ある晩、炬燵でうとうとしていると、何かがゴトン、と転げたような音がした。玄関を見ると、靴箱の上で瓶が倒れている。

ぴしゃ、ぴしゃ、と音を立てて、沈丁花が床を這っていた。